自分で考えるということについて
自分で考えるとは、どうやるのか。
自分以外何もない場所で、自由な時間を与えられ、問題の定義すらなく、何を考えるというのか。
やっぱり、人がいる社会の中で、自分の存在を認め、世の中とどうやって関わっていくのかという
ことで、考えるのだと思う。
学生を卒業するときに恩師から次の言葉を授かった。
「考えることの本質は、行動である。」
今も忘れていないと言うことは、ある意味この言葉に縛られているのかもしれない。
考えても答えが出ないものもある。その場合、あきらめるのか。
あるいは何か行動を起こすのか。
もう一つ、方法があると思う。
”信頼できる人、尊敬できる人あるいはそれに近い人の意見を聞く、話をする。”というもの。
これは最後の方法ではない。身近な人と会話するだけでも突破口が開けることもある。
突破口を開くためにも、まずは自分で考えてみる必要がある。
次に紹介する2つのブログには、私の考えるヒントとなった文章がある。
これを読んでいるあなたにも同じとは限らないが、勧めたい。
気ままにブログを書く人は、肝心なことを間違えたりする。
たとえば、容疑者の名前をうる覚えで書き込む。その程度の内容なのだ。
意見を言いたい人には、間違っているかもしれないが、自分の考えを伝えてみる。
相手に見所があるから、自分の意見を伝えるのである。
すべての行動でこのようにしてるわけではない。言い訳をしているのかもしれない。
つまりは、行動によって結果を出していくしかない。
紹介するブログ1( http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report3_1300.html )
紹介するブログ2( http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime )
他人のブログを紹介するだけの今の私ですが、夢があります。だから今はこうしています。
追記:この記事で、アクセスがようやく3,000を超えました。
自分を披露するブログです。でもやはり、少しでも読んでもらった人に「また来たい!」という
ブログにしていきたい気持ちがあります。やはり、行動、実践あるのみ。
追記2:ブログ2では、いろんな方がコメントを書いています。
発言する勇気と、色々な意見を最後まで受け止める覚悟を持った文章をかくという意志。
私ももうひとつ上の自分に出会いたいと切に感じました。
自分以外何もない場所で、自由な時間を与えられ、問題の定義すらなく、何を考えるというのか。
やっぱり、人がいる社会の中で、自分の存在を認め、世の中とどうやって関わっていくのかという
ことで、考えるのだと思う。
学生を卒業するときに恩師から次の言葉を授かった。
「考えることの本質は、行動である。」
今も忘れていないと言うことは、ある意味この言葉に縛られているのかもしれない。
考えても答えが出ないものもある。その場合、あきらめるのか。
あるいは何か行動を起こすのか。
もう一つ、方法があると思う。
”信頼できる人、尊敬できる人あるいはそれに近い人の意見を聞く、話をする。”というもの。
これは最後の方法ではない。身近な人と会話するだけでも突破口が開けることもある。
突破口を開くためにも、まずは自分で考えてみる必要がある。
次に紹介する2つのブログには、私の考えるヒントとなった文章がある。
これを読んでいるあなたにも同じとは限らないが、勧めたい。
気ままにブログを書く人は、肝心なことを間違えたりする。
たとえば、容疑者の名前をうる覚えで書き込む。その程度の内容なのだ。
意見を言いたい人には、間違っているかもしれないが、自分の考えを伝えてみる。
相手に見所があるから、自分の意見を伝えるのである。
すべての行動でこのようにしてるわけではない。言い訳をしているのかもしれない。
つまりは、行動によって結果を出していくしかない。
紹介するブログ1( http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report3_1300.html )
紹介するブログ2( http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime )
他人のブログを紹介するだけの今の私ですが、夢があります。だから今はこうしています。
追記:この記事で、アクセスがようやく3,000を超えました。
自分を披露するブログです。でもやはり、少しでも読んでもらった人に「また来たい!」という
ブログにしていきたい気持ちがあります。やはり、行動、実践あるのみ。
追記2:ブログ2では、いろんな方がコメントを書いています。
発言する勇気と、色々な意見を最後まで受け止める覚悟を持った文章をかくという意志。
私ももうひとつ上の自分に出会いたいと切に感じました。